痴漢ねつ造、「被害者役」自首で発覚 容疑の大学生逮捕
2008年03月11日20時32分
知人女性とうその痴漢被害をでっち上げたとして、大阪府警阿倍野署は11日、甲南大学4回生の蒔田(まきた)文幸容疑者(24)=京都市山科区=を虚偽告訴容疑で逮捕した。無関係の会社員が府迷惑防止条例違反容疑で逮捕されたが、後になって被害者役の女性が「示談金ほしさにうそをついた」と自首し、事件が発覚した。
調べでは、蒔田容疑者は2月1日、大阪市営地下鉄御堂筋線の車内で、男性会社員(58)の腕をつかんで取り押さえ、「痴漢した」と、同署員に虚偽の申告をした疑い。この際被害者役の知人女性(31)が泣き崩れる演技をしたという。
会社員は当初から否認し、同署が逮捕翌日の2月2日に釈放し任意で調べていたところ、女性が同月7日に自首。「金が必要だから協力しろと蒔田容疑者に持ちかけられた」と話したという。同署は女性も虚偽告訴容疑で書類送検する方針。
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結構面倒くさがりである。
よく考えるとこの性格は、様々な面で損しているのではないか。面倒くさがって、終いにやらないことが多いのだから。
面倒くさいと思ってしまうのは、結局のところ、そのほとんどが自らの知識・技能・経験のなさからなのだ。
面倒くさいと思っていることを、そんなの面倒でもなんでもない当たり前のことのひとつとして捉えきれず、いつも避けてしまっていたようなのだ。
面倒くさいことをこなすには手間がかかる。けれど、それは手間をかけてしまうやり方しか知らないからそうなるんだろう。知識・技能・経験の全てが不足しているからそうなっているのだろう。
逆に考えると知識・技能・経験をちゃんと積んでいけば、それを面倒と感じることがなくなるということか。
面倒と感じてしまうということは、己の未熟さを表していることなのかな?
面倒くさいと思ったときが、己の未熟さを克服するチャンスなのかもしれないなぁ。
だったら、いま面倒だと思っていることでも、しっかりと丁寧に取り組んでいって、行く行くは当たり前のこととしてやっていけるようになりたいな。
だから、身の回りのことからでいいから、面倒だと思ってしまっていることをどんどんやっていこうかな。
きっと、そうすることが面倒なことをなくすためにできることの一つなのだろう。
ひとつひとつ、面倒なことを潰していこう。
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補則?
ここでいう面倒なこと、面倒くさいことっていうのはやらなくてもそれはそれでOKなんだけれど、やれば現状より良い方向へ物事を進められることのことかな。また現状のまま放置しても、大して悪化することのないことかもしれない。
これは単なる言葉遊びになるかもしれないけど、ここでは厄介なことが面倒なことではない。厄介なことっていうのは、やらなければ確実に状況が悪化するもののことで、しかも絶対に手間がかかってしまうことだ。
……説明が下手というか、言葉を選ぶセンスがおかしいというか、言い表したいことが面倒という言葉であっているのか不安になるけど、とりあえずここらへんで終わろう。
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作ったので晒す。
友人に作る際のキーワードを三つもらったのだが、一つしかそのキーワードを掴めていない結果になったような気がする。
夏・祭り・勝負という三つのキーワードだったけれど、経験不足もあり、こんな曲になってしまった。
そろそろ、それぞれの音を弄ることをしたほうがいいのかなと思うようになってきた。
キーワードがあると作りやすさが違うものだなと感じたので、これからはキーワードを三つ挙げてから曲作りをしていこう。
良いものを作るためには、とにかく作り続けていくしかないはずだから、丁寧に作り続けていこう。
まずは色んな曲が作れるようになるようにやっていきます。習作作りを。
痛いのは我慢しなけりゃならないのはどうしてだろう? 何を我慢しなければいけない? 泣くことか、怒ることか、叫ぶことか、痛いことを痛いということか? 誰がそうさせた? 我慢することは果たして美徳なのか? 頑張るということは素晴らしいことなのか? 馬鹿らしい、そんなことはないはずだろう。
痛みに耐えてどうなるってんだ。ただ耐えるだけというのなら、それは結局何もしないのと変わらない。いや、それ以下だ。痛みに耐えれば、さらなる痛みが襲い掛かるんじゃないか? どうして何もしないのだろう。ただ、耐えるだけで、痛い痛いと思い続けながらも何もしない。誰かが痛みを取り去ってくれることを待っているだけなのか? そうだとしても、ただ耐えるだけで何もしないならば、誰も何もできないに決まっているじゃないか。
痛けりゃ痛いっていわなきゃ、誰もその痛みに気付かない。ただ痛み続けて、悪化の一途を辿るだけだ。
耐えることは決して美徳ではない。それは何もかもを台無しにしてしまうものなのだ。耐えるな、声を上げろ。泣いて、怒って、叫んで、痛みがあることを示すのだ。そうしなければ、どうしようもない。痛みを自力で取り除くこともできなければ、他力で取り除いてもらうこともできない。
痛みに耐えることが幸せになるための方法とはどうしても思えない。そもそも、その痛みは誰がもたらしたというのか? 痛みに耐えろと声高に語り、それを美徳ならしめたのは如何なる思惑ゆえなのか。耐えろと命ずるのは、裏を読めば痛みを取り除くためのことを何もしないということではないのか。
愚劣、あまりにも愚劣である。
痛みに対して求めるものは、「消えてなくなれ」という、ただそれだけのこと。何故にあるがままにし、なすがままにするのか。
痛いなら痛いと思い、そしてそれに耐えるべきではない。そうすることで、痛みを取り去るために動き出すことができるのだから。
そんなことを思った今日この頃であった。
時代的なもののせいなのか、ステレオだと完璧に音が右だけからでるか、左だけからでるか、それとも両方から同量の音量で出るかのどれかのようらしい。
さらに調べてみると、この時代は最大で4トラックという技術的な限界もあったらしい。
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandでは、何か俺にはまだよくわからない技術を駆使して、4トラックに8トラックくらい? の情報を詰め込んでいるらしい。すごいことなんだろうなぁ。
4トラック? まず、トラックという概念があんまりわかんないのが素人丸出しだな。トラックってあれだよね? 入出力っていうのかな? 今度先輩に訊いておこう。ついでに、あれを渡して意見を訊きたいよね。。。先輩、俺、もしかしたらすごいもの手に入れたかもしんないです。でも、その価値が俺にはわかんないので、鑑定頼みます。
というか、トラックくらい検索かけたらわかるだろ。。。
トラックとは
DTMソフトやシーケンサーで、個別に録音できるそれぞれのパートのこと。
例えばステレオの右チャンネルと左チャンネルは別々のトラックで、あわせて2トラックとなる。
DTMの場合は、録音する楽器やパート毎にこれを別々に割り振って録音していったりする。
んん? 1トラックだとモノラルということか。あれ? またわからなくなったことができた。まあこの辺はやっぱり先輩に訊くのが早いだろうな。。。
4トラックから8トラック、16トラック、32トラックと現在ではPC上でDAWを使うことである意味無限にトラック数を使えるらしい。俺はDAWでやるから、ある意味トラック数とかは考えなくても良いのかな? でも、ある程度基礎的なことは知っといたほうが良いだろうしなぁ。。。
まあ、トラックについては、1トラックにつき一つの楽器を録音する、という感じで認識すればいいのだろう。
話は戻って、モノラルとステレオ。何というか、録音(入力)は基本的にモノラルなのかな? ステレオで録音するものとかあるのだろうか? シンセサイザーとかか? わかんねえなあ(笑
んで、出力時にそれを2トラックに分けてステレオにする?
ビートルズの初期の頃は、4トラックしか使えなかったから、2トラックに分けてのステレオができないから、極端なパンになってるってことなのかな?
よくわからんことを考えても仕方ない。今度会ったときに訊けば良いだけだよね。
ビデオ録画も多分できたのでまた見ることが出来るようになった。
やっぱり、惹きこまれた。
ワケの分からないものが、ワケの分からないまま終わっていくという、そこに魅力を感じているのかもしれない。
それは決して不気味なものや神秘的なものではなくて、人間的なワケの分からなさなのだ。
そこに琴線が触れてしまう、そういう性格なんだろうなと思う。
いいもんが見れました。善き哉、善き哉。
ある程度確立されたジャンルの中で新しいものを作るっていうことは、そのジャンルを否定していると捉えられるものなのかもしれない。「こんなの○○じゃない!」という言葉で表現されるものは、新しいものなのかもしれない。
例えばガンダムだ。
ZZがアニメで放送された当初、「こんなのガンダムじゃない!」っていう意見があったらしい。
Gも同様。というかいまでも意見が分かれているらしい。
どうやら否定する人にとっては、「ガンダム」が出ていればガンダムというわけでもないらしい。
でもよく考えたら、そういう風に否定されるような「何か」がないということは、まったくの再生産になることなんだろうな。それで何か新しいものを作ろうとしても、なかなか難しいのだろう。だから「何か新しいもの」を取り入れ続けられるのかもしれない。同時に何かを捨てているのかもしれないけれど。
「何か新しいもの」をいれることで、それを楽しみにしている人をある意味では裏切ってしまうのかもしれないが、ただ再生産――再消費を繰り返すということは、何というか虚しいことだと思うので、個人的には良い裏切りなのではないか。
逆に、やってはいけない悪い裏切りというものもあるのだろう。
たとえば「ガンダム」なのにガンダムが一切出ない。「こんなのガンダムじゃない!」と誰もが口にするだろう。そしてその言葉は正しい。
こんな具合に、何かを作るために必要な要素を、欠かすことが生産する側のやってはいけない裏切りなのだと思う。
また、「新しい何か」っていうのは、作り手が本当に作り出す場合もあるだろうけど、それは稀なことだろう。大抵は、別の世界からの引っ張ってくるもんだろう。例えば、アニメの世界にマンガの世界にある何かを引っ張ってきたり、演劇の世界にある何かを引っ張ってきたり、映画の世界にある何かを引っ張ってきたり、文学、絵画、音楽、、、とにかく別の世界にある何かからだ。
そんなことを考えた今日この頃。
急に落とすかもしれないのでそのときはご容赦を。
深夜 0:05 - 2:15
NHK 衛星第2
ミッドナイトステージ館
グリング「Get Back!」
(2007年11月 ザ・スズナリ)
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見るしかない。
どうしてかっていうと、この演劇集団がある意味俺が演劇の世界に足をちょっとだけ踏み込ませたきっかけを与えたからだ。
もう三年前に、この演劇集団の行った「カルフォルニア」っていう舞台をNHKで見たのだ。
何というか、二時間だったか? 何の編集もされていない、わずか二時間という時間の間にこんなのことができるのかと奇妙な感覚に取り付かれた記憶がある。感動というヤツなのかな。
そんな自分にとっては多大な影響を与えたグリングの芝居が見れるのだから、見るしかない。
見忘れたら俺は泣くしかない。
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