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青二才が青二才なりにやってます。
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Posted by ダニエル - 2008.02.14,Thu
「勝っている」だとか「負けている」だとか、そういった価値観によってでしか自己像を肯定的にあるいは否定的に認識できないのであれば、なんて悲しいことだろうかと思う。

何もかもが競争になっているのだろうか。何もかもを競争としか見做せないようになっているのだろうか。競争によって順位付けられたそれは、一体何の差なのだろうか。

競争によって、差がわかる。ありとあらゆるものの差が歴然とする。しかし、その差が示すものは、結局それについての差だけなのだ。その差が、他の何かと結びつくということは、夢や幻のようなものでしかありえない。

「勝ち組」が幸せの状態であり、「負け組」が不幸の状態であるという思い込みが、以前から流行しているように思う。不安定な世の中になったんだなと、考え込んでしまう。

私は幸せであるという認識を、自己完結できないでいる人が多くなってきているような気がする。必ず、他者を通してから、私は幸せであるという認識を行っているような気がする。そして、そのときに「勝っている」か「負けている」かを考えなければ、自分がいまどうであるのかを知ることができないのだ。

と、そんなことを書いたが、本当にこれが正しいことなのかどうかさえあやしい。そもそも、勝っているからどうだというのか、負けているからどうだというのか。負けているということは、拒絶しなければならないことなのか?

結局のところ、それは自己肯定(あるいは自己否定)のために為されていることなのだろう。けれど、なんというか、そんなことはそもそもしなくてもいいんじゃないかと思う。そんなことしなくても、どうしようもなく「私」というのはいるのだ。もう、ここに「私」がいるのはどうしようもなく明らかなことなのだ。それをいまさら、肯定しようが否定しようが大した意味はないだろう。考えすぎなんだよ、本当に。

そこまで考えこんでしまうような事態になっていることが、悲しいことなんだけどな。

とまあ、ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/computer/863/1016107113/4504を見て考え込んでしまった次第である。

読み返せば読み返すほど頭の中がゴチャゴチャしていくんだけど、多分、何というかこの文章を書いた人が、自己受容できていないことがまず悲しいと思う。そして、そんな自分を自己肯定するために、勝ち負けでものごとを考えて、そして勝っていると考えて、自己肯定をしている。けれど、それでは自己受容ができていないので、やはり悲しいなと。

まあ、こういう価値観で生きてしまう人がいるということはどうしようもない。人間は誰もが「私」っていう名前の宗教から離れることができないんだって言うし、仕方ないことなんだろうな。まあ、対処法がないわけでもないらしいけど。。。

長くなった。つまらない話を書いてしまったかなぁ。。。
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